2015年9月12日土曜日

「yahooのトップニュース」と「甲子園 田中広輔 幻のホームラン」




 
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みなさんが、興味のある話題が表示される。
 
 
特に今日みたいに、
 
 
水害や、地震などある日は、
 
 
そのような内容が多くでる。
 
 
 
しかし、そのような中、
 
 
 
 
 
なぜか、栗原の話題が・・・
 
 
 
 
早々に消されてはいけないので、
 
コピペしておくか。
 
 
 
 
消えた元四番打者 広島カープ栗原健太の「現在」 【プロ野球特別読み物】
 
 
 
かつて、ミスタープロ野球こと長嶋茂雄氏から「将来、球界を代表する打者になれる」と期待された男は、強すぎる使命感ゆえ、打撃フォームを崩した。表舞台に戻ろうともがく元主砲を追う。
       
「弱い広島」を支え続けた
 
 広島に原爆が落とされた8月6日。この日は、広島・栗原健太(33歳)にとっても特別な日だ。年に1度と決めたブログ更新の日、今年も地元・広島への思いとともに、自分の現状を綴った。

 〈プロ野球の世界は、1軍だけではありません。

 1軍はプロ野球選手の中から選ばれた選手だけがいる、華やかで派手で、子ども達の夢も大きく膨らむ場所です。

 1軍に登録されても、その中で、打席に立つ、レギュラーになる、タイトルを獲る、記録をつくる、上には上があります。そして、カープには、2軍と3軍というところもあります。

 僕は長年肘にかけた負担のため悪くなった肘の手術の3回目が終わり、3軍で調整した後、今、2軍にいます〉

 カープが誇った背番号5がマツダスタジアムから姿を消して、もう2年以上になる。パワフルな打撃で20代で4番に座り、'09年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では日本代表として優勝メンバーにもなった栗原は、広島から西へ50km以上、隣の山口県岩国市由宇町の二軍練習場が現在の拠点だ。

 「日大山形高から'00年に入団した栗原は'08年、それまで4番だった新井貴浩の阪神移籍に伴い、開幕から4番に座りました。その年、103打点、打率・332とチームを代表する打者になった。

 栗原は、入団してから4番に定着するまでの9年間、一度もAクラスがなかった。戦力的にも苦しいとき、打線の軸として孤軍奮闘していたイメージが強い」(スポーツ紙広島担当記者)

 栗原が飛躍をとげた'08年に広島の打撃コーチだった評論家の小早川毅彦氏が、振り返る。

 「チャンスに強く、ここぞというときに頼りになった。彼は右方向にも鋭く、大きい当たりを打てて、本塁打より勝利に導く打点にこだわった。

 豪快に見えますが、相手投手の攻め方などスコアラーとよく相談して、狙い球を絞って打席に立つ、クレバーで繊細な部分もある。そういう選手は、一度結果が出なくなると考え込み、ひたすら練習するんです」

 栗原の性格を示すエピソードがある。広島OBが明かす。

 「'09年のWBC代表選考合宿で、栗原は一度、メンバーから外れました。落選を通達された日、ほかの4選手はすぐに帰りましたが、栗原だけは残って特打を始めた。その栗原の姿を見て、原監督は『こういう選手は見たことがない』と感銘を受けたようです。

 その後、村田修一(当時横浜)が大会中に負傷したとき、栗原を緊急招集したのは、そんな理由があったのです」

 その日、1時間近く打ちこんだ栗原は、のちにこう振り返っている。

 「『今日は帰りたい』と少しは考えました。でも、(落選を)頭で切り替えようと思っても、どうしても考えてしまう。だったら打とう、と無心でバットを振りました」
 
 
右ひじに抱えていた爆弾
 広島で中心選手に成長し、日本代表にもなった。野球選手としてまさに輝ける日々だった。だがその頃すでに、栗原は体に「爆弾」を抱え、しかもその存在を隠していた。

 「4番に定着する前年の'07年から、右ひじの痛みを我慢していた。'08年は痛みを押して大活躍したけど、結局こらえきれなくなってシーズン後に手術した。そこからですね、栗原の苦難がはじまったのは」(前出の担当記者)

 栗原の右ひじ痛は、1度の手術で完治するものではなかった。その後、栗原は常に痛みを抱えながら、プレーを続けていくことになる。

 プロ野球選手が体のどこかを慢性的に痛めることは、珍しくはない。だが栗原の場合、「だましだまし」痛みとうまく付き合うというプレーの仕方ができなかった。

 爆弾が再び炸裂したのは、'11年だった。

 開幕時に4番だったトレーシーがケガで6月に米国に帰国。かわりに4番に座った栗原は、右ひじ痛が日に日にひどくなっていたが、「自分が抜けられるチーム状態ではない」と周囲には隠し、薬と注射で痛みを抑えながら全試合に出場した。

 だが、もう限界だった。シーズン終盤にはバットを振るときに痛みでひじをうまくたためなくなり、打撃の調子自体もおかしくなっていた。オフを過ごしても痛みは引かず、翌'12年4月、栗原は2度目の手術を決意する。

 栗原のひじ痛は、打撃にどう影響したのか。栗原を指導した経験のある広島OBが説明する。

 「ひじが痛いと、フォロースルーでひじが伸びない。ひじが伸びきらないまま、バットを返してしまうとボールが飛ばなくなり、それでも飛ばそうと思うと今度は余計なところに力が入ってしまう。その悪循環が、体に染みついてしまった。

 栗原が好調の時はロングティーをやると、スタンドに打球がポンポン入ったのに、ひじを痛めてからは、スタンドの手前でおじぎして、飛距離も落ちてしまった」

 '12年は手術後、シーズン終了まで二軍暮らしを余儀なくされる。その頃栗原は、ブログにこんな心境を綴った。

 〈(治療のため)試合がない分、ほぼノーストレスで居心地がいい。でも慣れてしまってはいけない〉

 再起をめざした翌'13年はひじの痛みも和らぎ、開幕一軍で迎えたが、打撃の調子が上がらず。松山竜平など若手の台頭もあり、5月に二軍に降格してからは、一度も昇格できなかった。

 「心が折れそうになった」と、栗原の口から弱気な言葉が漏れるようになる。

 そして昨年11月、やはり違和感が消えないため、栗原は3度目の右ひじ手術という選択をする。そして迎えた今季。以前ほどの痛みはなくなったが、全盛期の打撃を取り戻すことはできず、開幕から二軍暮らしが続いている。

 「手術で痛みがなくなっても、痛みを脳が覚えている、と本人は言っています。そうすると、自分では以前と同じ感覚でバットを振ろうとしているのに、脳が痛みを回避しようとして、微妙に体が言うことを聞いてくれなくなるそうです。

 投手と打者はコンマ何秒の勝負。自分の思い通りに体が動かないことが、致命的になってしまう。栗原自身、いちばんそのことがもどかしく、悩んでいるでしょう」(広島の球団関係者)
 
 
恩師が見抜いた心の揺れ
 チームの勝利のために身を粉にして練習し、その代償として負った右ひじ痛の影響で、極端な打撃の不振を招いてしまった。そんな現状にもがく教え子を救おうと、栗原の母校・日大山形高校の監督だった渋谷良弥氏(現・山形商高監督)は昨年末、栗原と食事をした。

 「12月28日、彼の家族や同級生なども交えて寿司を食べました。

 健太は昨年、一軍での出場機会がなく、つらい思いをしていることを周囲も当然知っていた。だから何と声をかけていいのかわからず、例年なら食事をしながら笑いが起きるのに、昨年は今までと違い、和やかさ、楽しさがなかったんです」

 恩師は、栗原が今年の8月6日に、ブログに綴った文面を見て、心の揺れを感じたという。

 「彼のブログの中に、二軍選手の苦悩や葛藤についても、書かれていた。健太の精神面の成長を感じる一方で、『引退も覚悟しているのかな』と心配になりました」

 なぜ、渋谷氏はそう考えたのか。

 「私は、彼が高校3年になると主将に指名しましたが、彼は『オレについて来い』とばかりに、自分のひたむきな姿勢を見せ続けることで周囲を引っ張っていた。周りの子のことも考えていたとは思うけど、口下手でしたし、それを言葉にするようなタイプではなかった。

 健太が今、一緒に過ごす二軍選手の苦しみをあえて言葉にして披露したということは、それだけ、健太も苦しいということでしょう。周囲に配慮できるようになった成長がうれしかった反面、ブログが更新された2日後の8月8日、心配になって電話しました。

 本人から『監督。僕は絶対にこのまま終わりませんから。もう一回、上で頑張りますから』と聞き、少しほっとしました」

 本人の意気込みとは裏腹に、栗原を取り巻く現実は厳しい。

 かつての4番が、二軍でも先発で出られず、代打要員。出場はわずか30試合に満たず、打率は1割台に低迷している。それが今、栗原がいる「場所」だ。
 
 
あのホームランをもう一度
 だが、そんなところにも一筋の光が差し込むことがある。

 8月22日、山口・由宇で行われた阪神戦。いつもと同じように代打で登場した栗原は、レフトへ今季1号となる特大弾を放った。栗原の高校時代、担当スカウトとして山形まで何度も通った苑田聡彦・スカウト統括部長も偶然視察していた。

 「翌日に広島でスカウト会議が予定され、全国からスカウトが集まってきていたので、みんなで由宇球場に観に行きました。

 あの日、練習から見ることができましたが、栗原は右ひじがきれいに伸びるようになっていた。タイミングの取り方も戻っていて、一軍でバリバリやっていた時のスイングに近かった。本塁打は、130mはゆうに超えていましたよ。

 彼が高校3年生のとき、どえらい本塁打を打っていたのをよく覚えていたので、本塁打を打った後、『高校3年のときを思い出したぞ』と声をかけたら、笑顔を見せてくれました。

 僕は現場の選手起用についてどうこう言える立場にはないけど、今の一軍は本塁打を打てる打者が少ないし、健太はチャンスに強いから、使ってもらえるといいのに、とは思います」(苑田部長)

 栗原の故郷、山形県天童市内で焼き肉屋を営む母・順子さんは、遠く離れて苦悩する息子についてこう語る。

 「本塁打はファンの方が撮られた映像を送っていただいたおかげで、見ることができました。『代打、栗原』というアナウンスがあると『栗原~! 』ってファンの方が言ってくださる。それだけでもう、胸がいっぱいになった。本塁打を打った健太の心からの笑顔を久々に見られて、嬉しかった」

 7月下旬、仕事の合間を縫って、順子さんは二軍戦を観にいった。

 「健太とは試合後に食事をしました。今どうなのか、これからどうなるのか、もちろん心配ですが、あの子は『調子は悪くない』としか言わないから……。

 その日は健太の家に泊めてもらいました。由宇での試合は大抵12時半開始ですが、広島は試合前でも、調整ではなく厳しい練習をするので、健太も若手に交じって練習をしに行くため、早朝5時半に自宅を出ていきました。

 プロは、結果がすべての厳しい世界だというのはわかっています。それでもあの子の努力が、頑張りが、もう一度報われる日が来ることを、私は祈っています」

 恩師や母だけでなく、栗原の復活を待っているファンもたくさんいる。特大のホームランをマツダスタジアムでまた打つために、栗原は、バットを振り続ける。

 「週刊現代」2015年9月12日号より
        
 
 
 
 
 
 
そして今の栗原
 
 
 
 
 
8/22のホームラン
 
 
 
 
しかし、あれから2軍の試合で、
 
2試合だけしか出場していない。
 
 
 
栗原は、
 
今の地獄から抜け出すことが出来るのだろうか。
 
それとも・・・
 


 
 
 
 
 
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 P.S


甲子園の外野フェンスについて





12回表


田中のあたり





 





明らかにフェンスは越えたと思ったが、


ホームランにならず。






なぜか。





















甲子園は、ネットを人が乗り越えないように、

ねずみ返しがついているのである。




田中の打球は、

このねずみ返しのネットの部分に、




ビヨ~ンって跳ね返されたのである。



これまで、ホームランは

フェンスの天辺の部分を

越えたものと思っていたが、

甲子園では違うんですね???





ルールでは、

打者が打った正規の打球が、

地面かあるいは「野手以外のもの」に触れることなく

両翼のファウルラインとフェンスの交差地点の間を

通過してプレイングフィールドの外へ出た場合。



プレイングフィールドの外にある壁(バックスクリーンなど)に

当たって跳ね返り

再びフィールドに戻った場合も含まれる。

 

なるほど。

甲子園では、この野球規則は、

当てはまらないのか。




それとも、
 
 
 
誤審か





まあ、誤審ですね。


しかしビデオ判定でもこのザマ。
 




ビデオ判定は神ではない。

あくまでも正確の向上と、

監督さんを納得させるための口実を作るもの。






ビデオ判定するなら、


安心マークの、

















映倫に任せろよ。





こっちは、1勝に命をかけとるんじゃ!!


ぼけ~



 
 


 
 
 
 
 
ダメ出し P.S
 
 
 
 
 
この角度からのビデオは、
 
見られなかったんですね?

 
 
 
 
 
 

1 件のコメント:

  1. 報知新聞が決定的な写真を撮ってましたね。
    まあ、もし勝ち越しても結果は勝てたかは神のみぞですね。

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