薮田の人生。
映画にもなりそうな人生である。
世間では、
「ビリギャル」などの映画も大好評であるが、
薮田君のそれは、そんなレベルでは済まない。
まずは、映画名を考えよう。
かっこいいやつ。
「ビリギャル」
にちなんで、
「控えの少年」
「グラップラー刃牙」
にちなんで、
「ルーズショルダー薮田」
「鯉の滝登り」
にちなんで、
「薮田の滝登り伝説」
「一杯のかけそば」
にちなんで、
「一杯のやぶそば」
どれも泣けそうなタイトルである。
まあ、ここは、
「薮田の人生」
にしよう。
1992年8月7日
薮田和樹生まれる。
~以下、テレビ放映のパクリ~
にしよう。
1992年8月7日
薮田和樹生まれる。
~以下、テレビ放映のパクリ~
薮田和樹選手は
お父さんの顔を
知りません。
お父さんの顔を
知りません。
幼少時代、
すでにご両親は
離婚されており、
お母さんが女手一つで
和樹選手とお兄さんの
二人を育て上げました。
すでにご両親は
離婚されており、
お母さんが女手一つで
和樹選手とお兄さんの
二人を育て上げました。
しかし、その生活は
決して楽ではなく
非常に大変なものでした。
決して楽ではなく
非常に大変なものでした。
お母さんは
保険の営業をしながら、
夜は弁当屋さんのアルバイト。
保険の営業をしながら、
夜は弁当屋さんのアルバイト。
それでも月の収入は
わずか15万と
家計はまさに火の車でした、
わずか15万と
家計はまさに火の車でした、
それでも息子に
好きな野球を
させてあげたい。
その思いでお母さんは
必死に働きました。
好きな野球を
させてあげたい。
その思いでお母さんは
必死に働きました。
しかし、それでも
生活はますます苦しくなり、
遂には給料を
前借するように。
しかし、そんな中でも
お母さんの唯一の救いは
二人の息子の優しさでした。
食べるものがない時は
二人が自ら考案した
削り節のマヨネーズかけの
ごはんを美味しそうに
食べていました。
貧しくても二人は
決して暗くなることなく、
楽しく振舞ってくれて
いたのです。
しかし、極貧の生活で
徐々にお母さんは
体調を崩すようになりました。
給料がいいからと
新たに始めた
タクシードライバー、
仕事と家事をしながら、
休みの日は和樹選手の
野球の応援。
そしてついに
お母さんは
仕事中に事故を起こし、
仕事を辞めざるを
得なくなりました。
職を無くしたお母さんは
やがて、金融機関から
借金を重ねるようになり
ますます生活は
困窮していきました。
やがて、極度のストレスで
髪の毛が全部抜けてしまい、
ついには眉毛まで
抜けてしまいました。
病名は心身症でした。
それは精神的に
完全に参ってしまった
現実でした。
また、この頃、
極度に視力が低下し、
ますます身体は
弱っていきました。
しかし、お母さんは
この現実を和樹さんには
一切、教えずにいました。
そしてこの頃、
和樹さんは東京の大学から
野球推薦の話を
もらっていました。
お母さんの状況を知った
お兄さんは何も知らずに
野球をする弟、和樹さんに
こう言います。
「和樹。大学には行くな。
うちにはそんな金はない。
母さん、頭にハゲつくってまで
お前を支えてたんだぞ。
もうこれ以上、無理をさせるな」
普段は温厚なお兄さんも
この時ばかりは
怒鳴ったそうです。
そして、大学の推薦入試。
論文試験だったこれを
和樹さんはただ、こう一言、
書いただけでした。
「我流こそ我が人生」
それはあえて、
不合格を狙うものでした。
和樹さん自身、
野球をあきらめようと
していたのです。
しかし高校時代の恩師から
「野球をあきらめることは
お母さんを裏切ることになるぞ」と
後押しをしてくれました。
事情をしった大学側も
奨学金での入学を認めてくれ、
和樹さんは二次試験で
見事に亜細亜大学に
入学しました。
そして、
奇跡の日がおとづれる。
朝から夜まで息子のために働くお母さん。
そんなお母さんが、いつものように、
タクシーの運転をしていると、
松田オーナーが乗車。
すぐにそうだと気づいたお母さんは、
『息子が東京の亜細亜大学で
ピッチャーをやっているんです。
速いボールを投げます。
ぜひお願いします!』
と売り込んだ。
これもなにかの縁だと思ったオーナーが、
『一度、亜細亜へ行って見てこい』とスカウトに指令。
結果的にこの一言がプロへの道を開くことになった。
大学3年夏のオープン戦の
横浜商大戦で152キロをマーク。
この試合を12球団で唯一、
視察したのが広島のスカウトだった。
亜大野球部関係者が証言する。
「やんちゃな性格で生田監督が
サジを投げかけたほど。
ヒジ、肩と故障が多かったこともあって、
練習にいないなと捜してみると、
寮で寝ていたなんて日常茶飯事。
広島に指名された後も球団に
『母子家庭で苦労したんだから金はしっかり管理しろ。
無駄遣いはするな』と厳しく言われたのに、
入寮早々、パチ●コをやったのがばれて球団に
“教育的指導”を受ける始末。
しかしそんな逸話も、
「やんちゃ坊主のずぶとさ」が
緒方監督に買われた。
そして、薮田は東京ドームの
マウンドに立つのである。
ちなみに
映画「薮田君の人生 青年時代編」は、
これにて終了。
引き続き
「薮田君の人生 壮絶カープ編」
「薮田君の人生 栄冠のメジャー編」
「薮田君の人生 我流こそ我が人生編」
と続くのである。
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っていうか、
続編なんかあるか、ボケー。
もうひとつ、
カープがDeNAに弱すぎ。
もうひとつ、
カープがDeNAに弱すぎ。
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